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2025/03/17【引退選手のお知らせ】田原 遼太郎(男子マラソン)

2025年2月24日(月)の大阪マラソン2025をもちまして田原遼太郎選手が競技引退となりました。

田原選手は2021年4月にスズキ入社,約4年間アスリートクラブ選手として活躍いたしました。

【田原遼太郎選手より】

はじめに、日頃よりスズキアスリートクラブのご理解とご声援ありがとうございます。

この度、2/24(月)の大阪マラソンをもちましてアスリートクラブの退部、そして現役引退をいたしました。

陸上競技に出会い14年間、今日まで後ろを振り返ることなく不器用だと自覚しながら全力で走り続けてきました。引退した今だからこそ、来た道を振り返ると決して順風満帆な道ではなかったです。

少しの成功と多くの挫折を味わい、最後は競技者として皆さまのご期待に応えることができず、怪我との戦いに負けて道半ばで終わってしまったことの負い目を感じています。

それでも、かけっこが好きだった子供の頃から随分遠くまで来た、と思うと自分の競技人生は恵まれていて誰もができる経験ではないと気付かされました。このような貴重な経験ができたのも皆さまのおかげであり、全ての方に感謝と御礼をお伝えしたいです。

【職場(機種統括部)の皆さま】

引退する日までアスリート活動のご理解とご声援、心から感謝しております。

競技人生の最後は怪我との戦いで選手として苦しい日々の連続でしたが、腐ることなく向上心を持って挑み続けることができたのは皆さまのご理解とご声援があったからこそです。

心新たにスズキの一員として社業に専念させていただきます。陸上競技を通して学んだことを次の場所で活かせるように日々精進して参ります。

そして、これからもスズキアスリートクラブのご声援、どうぞよろしくお願いいたします。

【入社後の成長記録】

5000m 14分21秒21→13分43秒49(-38秒)

10,000m 28分56秒41→28分31秒63(-25秒)

ハーフマラソン 1時間05分23秒→1時02分12秒(-3分11秒)

マラソン 2時間18分03秒(大阪マラソン2025)

【田原選手の道標】

田原選手は大阪府出身,中学から陸上を本格的にはじめ、中学~高校までは800mの選手として活躍します。高校3年生時には800mでインターハイに出場します。

大阪経済大学に進学してからは競技を10000m、駅伝に移し、出雲駅伝、全日本大学駅伝に出場し、2021年スズキに入社しました。

入社当初は環境の変化に対応できず、レースに出場しても上手く力を発揮することができませんでしたが、同期入社の選手との練習や、藤原ヘッドコーチの指導で徐々に結果に現れてきます。

6月7月10月11月と連続で自己ベストを更新し、着実に力を付け、2022年にはハーフマラソン、マラソンに挑戦し、ハーフマラソンでは当時のスズキ記録を更新します。

同年の12月に初マラソン(防府マラソン)に挑戦します。結果は30km付近での途中棄権となりましたが、このレース後から自身を変えるための新しい挑戦がはじまりました。

2023年のシーズンは走る距離を大幅に伸ばし、新しいことを取り入れ、マラソンに対応できる体を作りあげました。

もともとスピードタイプの選手でマラソンへの対応にはかなり苦労し、体が仕上がり調子が上がりはじめると怪我が頻発、心身ともに疲弊し、迷いの時期が長く続くこともありましたが、苦しくとも歩みを止めず、少しづつですが前進していきました。

満を持して出場した2023年の防府マラソンでしたが、35kmで途中棄権となりました。

マラソンは5カ月~3カ月の準備期間を要するのに、レースで結果が出ずらく、結果が出ないときは自身のすべてを否定されているような気持になります。

田原選手自身「走ることを辞めて楽になりたい」と、この時期は考えていたようです。その中で支えになったのが家族や応援してくださる人達の存在でした。その支えもあり、もう一度マラソンに挑戦しようと立ち上がります。

そして2025年大阪マラソン、田原選手は地元の大会をラストレースと決め出場しました。

結果は2時間18分03秒、田原選手が掲げていた目標には及びませんでしたが、競技人生ラストレース、マラソン3度目の挑戦でのゴールは最高の終わり方だと感じました。

周りの支えもありましたが、後輩やチームメイトのマイケル、ヴィンセントに慕われ、チームの大事な存在でもありました。多くの怪我や苦悩がありましたが、よくそれを乗り越え走り抜きました。

長い間、本当にお疲れさまでした。

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